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田蓑神社


本社
拝殿

■御祭神
  住吉の四柱
   ・底筒之男命(そこづつのおのみこと)
   ・中筒之男命(なかづつのおのみこと)
   ・表筒之男命(うわづつのおのみこと)
   ・神功皇后(じんぐうこうごう)

  住吉の大神は、禊祓で出現されましたので、神道でもっとも大事な祓いを司る神と
 信仰されています。また、古くから海上の無事を祈る航海安全の神として、
 万葉集に歌が残っています。また和歌の神さまとして、数々の和歌が詠まれています。
 住吉の大神が草を敷かずに苗代をつくる方法を教えたという伝説が 残っており、
 五穀豊穣、農耕の神、転じて産業、商業、貿易の神といわれています。

■由緒
 貞観十一年(西暦869年)九月十五日鎮座、田蓑嶋神社という。
 寛保元年(1741年)九月に住吉神社と改名、明治元年(1868年)に田蓑神社となる。

  「日本書記」や「古事記」でよく知られるお話しで、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
 が、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追い求め、
 黄泉の国(死者の世界)に行きました。そこで受けた汚れを清めるために、
 「筑紫の日向の橘の小門の憶原」というところで禊祓いしたとき、住吉の神である
 底筒男命 (そこつつのをのみこと) 、中筒男命 (なかつつのをのみこと) 、
 表筒男命 (うはつつのをのみこと) の「住吉三神」が生まれました。
  時代は下って、十四代仲哀天皇の妻である神功皇后 (じんぐうこうごう) が
 新羅に出兵する際に、住吉の大神を守り神と奉り、遂に成し遂げ国の安定を築かれ
 ました。その帰途、この地に立ち寄られた折、海士が白魚を献上されてより、
 その海士を奉ったとされております。
  後の世、当地開拓の時その海士が出現し、神功皇后の御船の鬼板を伝え守って
 数百年、この神宝を安置して住吉大明神をお奉りせよと申され、
 貞観十一年(869年)に創建され、住吉三神と神功皇后の「住吉四神」を
 お奉りいたしました。
  社名は時代と共に、田蓑嶋神社(田蓑嶋姫神社との説も)、住吉神社(住吉大神宮、
 住吉明神、住吉大明神とも)と変遷し、明治元年(1868年)に田蓑神社と改められました。

■徳川家康と田蓑神社
  天正年間、徳川家康公この地に立ちよられ多田の廟(川西市多田神社)に参詣の折、
 田蓑嶋漁夫等、漁船をつかって、神崎川の渡船を勤めた縁により、漁民等には「全国
 どこで漁をしても良し又、税はいらない」という特別のごほうびをいただき、漁業の
 一方、田も作れと命じられ、その竟をもって田蓑嶋を佃と改め、後、寛永八年(1631年)
 田蓑嶋神社内に、徳川家康公が奉られることになった。
 人助けにより、村の繁栄がもたらされたのです。私たち佃の氏子は、その心を大切に、
 神恩に感謝するとともに、世のため人のために奉仕し、福祉の増進を心掛けたいものです。

■佃漁民ゆかりの地
  天正十八年(1590年)八月一日家康公が関東へ下降の際、田蓑神社宮司
 平岡正太夫の弟、権太夫好次を含む三十四人の村人が江戸へ下りました。
 後に幕府より干潟を賜り、故郷の名をとり佃島と定め、田蓑神社の御分神霊を
 奉戴しました。これが、佃煮発祥の地として有名な、東京の佃島と同地の
 住吉神社の起源です。

※由緒等、当社古文書よりの抜粋により、他史料と内容が異なる場合があります。

境内社
東照宮・金比羅宮
七重之社
稲生社
【東照宮】

徳川家康公

【金比羅宮】

大物主大神
【七重之社】
天照皇大神
猿田彦命
事代主大神
大国主大神
応神天皇
少彦名大神
菅原道真公
【稲生社】
宇賀御魂神
鳥居・狛犬・碑
拝殿前狛犬
狛犬
 近頃のパワースポットという言葉を用いて、様々な社寺や景勝地が
取り上げられていますが、あるテレビ番組の視聴者FAX投稿で、
当社のことが取り上げられたということです。
 概略は、当社の狛犬の足をなでて祈願したところ、宝くじに
二度当たったということ。
 この件につきましては、放映後問い合わせを頂くことがございますが、当社ではご本人から
お話しを伺っておらず、詳細は分かりかねますこと、ご了承願います。
 尚、境内にはいくつかの狛犬がございますが、下記の御垣内の狛犬は、立ち入り禁止の
ところにございますので、当該の狛犬ではありません。恐らくは、拝殿の前の狛犬だと
思われます。

 さて、放送後、参拝の方が増えたようにも思われます。宝くじにあたる
かどうかはともかく、神社を知る機会になったのかもしれません。
これを機に、どうぞ神様のご恩に感謝し、奉賛の誠を捧げることにより、
更なる御神威の発揚を願い、より一層の御神徳を戴きましょう。
 狛犬の足を撫でたから宝くじに当たったというより、狛犬の足を撫でる位にご祈願いただいた
ので、神様のお恵みを受けたのではないでしょうか。

鳥居
正面鳥居
 永正八年(西暦1511年)に建てられたもので、この年代の鳥居としては
型も整っているものです。

狛犬
御垣内の狛犬
 石製の浪速狛犬としては大阪府下で一番古いものです。
元禄十五年(西暦1702年)正月十七日奉納

佃漁民ゆかりの地
「佃漁民ゆかりの地」碑
 天正年間、徳川家康公この地に立ちよられ多田の廟(川西市多田神社)に参詣の時、田蓑嶋漁夫等、漁船をつかって、神崎川の渡船を勤めた縁により、漁民等には「全国どこで漁をしても良し又、税はいらない」という特別のごほうびをいただきました。また、家康公が関東(現在東京)へ下降の折に佃の人等がお供し、当時安藤対馬守、石川大隅守の邸内を経て、寛永年間に幕府より鉄炮洲(現在佃嶋)の地をいただき、大阪の佃と同じ名を付けましたのが、現在の東京都中央区佃であります。

慰霊碑
慰霊碑
 大東亜戦争(太平洋戦争)にてお亡くなりになられた英霊の名を記した霊璽碑です。11月3日にご遺族主催の慰霊祭が斎行され、戦没者の霊を慰めるとともに、日本の隆昌と世界の共存共栄、恒久の平和を祈念いたします。
 この場所には、戦中には馬の像が奉安されていた様ですが、物資動員で徴収された場所であったと伝え聞いております。戦争中の国内情勢を伝える場所に、英霊の慰霊碑が建立されています。

歌碑
紀貫之歌碑
 平安時代の歌人紀貫之が旅の途中田蓑嶋(現在の佃)に立ちよられ歌を詠まれたのが次の歌です。境内に歌碑があります。
     雨により
         田蓑の嶋に けふゆけど
       なにはかくれぬ
            ものにぞありける

復興モニュメント
震災復興モニュメント
 昭和の御代も64年1月7日をもって最も長き時代を終え、平成の御代と変わり平穏無事過ぎしが7年1月17日未明、阪神・淡路大震災(震度七)が起こり、佃の町も多大な被害にあい、当社においても、拝殿の傾き社務所の全壊を初め、鳥居、灯篭、参道等多大なる被害を受けましたが、ただちに復興工事を行い10月15日に復興し、秋の大祭に奉祝を行うことができました。
 平成12年7月吉日、震災により折れた標柱を、復興のシンボルとして建立いたしました。

芦刈
「謡曲 芦刈ゆかりの地」碑
 昔、難波に仲の良い夫婦がいました。生活苦のため相談をして夫と妻は別々に働きに出ることにしました。夫は芦を売り妻は都へ奉公に出てやがて妻は優雅に暮らす身分になりました。妻は夫が恋しくなり探すうちにはからずも路上で巡り会いますが夫はみすぼらしい身を恥じて隠れます。二人は夫婦の縁は貧富などによって遮られるものではないという意味の和歌を詠み交わすうちに心も通い合目出度く元通り夫婦仲良く末永く暮らしたいという「大和物語」の話より作られた謡曲が「芦刈」です。
 その昔、淀川支流の佃周辺は川岸に沿って昔芦が群生していた所で、現在謡曲「芦刈」の舞台とした面影はないが田蓑神社はその史跡として今に伝えられています。
謡曲史跡保存会
   
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